教師として当たり前だと思っていることが当たり前ではない。客観的に見る大切さ。

学級運営

学校って当たり前にやっていることあるよね。

教師として学級をもっていると、毎日が目まぐるしく過ぎていきます。

初任者のころは分からないことが多くて先輩教員に一日の流れを教えてもらったことを覚えています。

経験年数が増えてくると、自分のやり方や型ができ、スムーズに一日を過ごすことができるようになってきます。

しかし、その一日の流れの中に自分だけ(この学校だけ)の「当たり前」がありませんか?

当たり前を見直すことで教師としての資質能力が高まり、子どもたちの学習・生活意欲も高まっていくと考えられます。

宿題の当たり前

宿題は何のためにやってくるのでしょうか。

先生に怒られないようにするためでしょうか。

宿題は子どもたちの学力が伸びていくように設定され、出しているはずだと思います。

しかし、ほとんどの宿題が作業としての宿題になっているように感じます。

作業的な宿題がすべてだめだとは思いません。

それ以上に子どもたちが自発的に楽しみながら宿題を行う方がよいと思います。

子どもたちの自由な発想の中で、意欲をもたせた宿題ができると、学力も上がってくると思います。

そして自分から学ぶ力が身に付きます。

これから社会に出ていく時、人から与えられたものだけをこなすのではなく、自分から関心を持ったり疑問を抱いたりできるようになってもらいたいと思います。

作業的な宿題を出しているかどうか、客観的に自分のクラスを見てみましょう。

背の順に並ばせる当たり前

どうして背の順に並ばせるのでしょうか。

並ぶ時、先頭の背の低い子が腰に手を当てるポーズをしている姿が目に浮かびます。

ばらばらに並んだ時、背の大きな子が目の前に来ると前が見えないからでしょうか。

理由が説明できるなら続けていく必要があると思いますが、説明できない物はもう一度時間を取って考え直すことも必要です。

体育座りをさせる当たり前

体育のとき体育すわりをさせますが、それはなぜでしょうか。

見栄えがいいからでしょうか。

砂をいじらないようにするためでしょうか。

教師が子どもたちに同じ行動をさせてコントロールしているようにも見えます。

教師のための体育座りなのかもしれません。

授業の中で子どもたちを座らせるときは、教師の話を聞いてほしい時だと思います。

目と耳が教師の方に向いていることや子どもたちの学習に対する意欲が見えるのであれば、どんな座り方でも構わないのかもしれません。

校則の当たり前

校則だからやってはダメというものもあります。

しかしその校則に明確な理由はありますか。

子どもや保護者から聞かれたとき「校則だから」ではなくしっかりとした説明ができますか。

赤ペンや青ペンを使ってはいけない。

体操服をズボンに入れなければいけない。

手袋やマフラーは昇降口でとらないといけない。

最近ニュースになっているツーブロックの髪形も同じです。

教師が説明できないものは、子どもも保護者も納得がいかないと思います。

よりよい関係を作るために説明ができるものだけを校則として見直すべきだと思います。

最後に

ここにあげたものは学校生活の中のほんの一部かもしれません。

そして、一例としてあげているので、学校や教師によって違うこともあると思います。

教師が当たり前として行っていることが、当たり前ではないということを意識していかなければいけません。

客観的に自分を見直すこと学校を見直すことを怠ってはいけません。

社会は常に動き続けています。

閉塞的な学校社会から脱却していかなければいけません。

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